学校バトン→中盤戦→終わる気配無し

最近の月曜日はもっぱら休日だ。何かがおかしい、おれの生活。

今回の昼ドラ(フジテレビ)は僕の大好きだった「新・愛の嵐」を彷彿させるものがある。


たけし!

ひかるお嬢様!!



ってか、基本同じだろ。。今回は目が不自由らしいが。

最近多いね、昭和初期を舞台としたメロドラマ。



・・・学校ばとむを復活させます。遣り残すのもどうかと思うので。



●質問5:思い出に残った学校行事を3つあげてください。

うーむ。

これは3部作だ。情熱の3部作。


その1 高校1年生の文化祭

うちの学校は前回書いたように僕にとって「強制収容所」のような場所だった。

だから、案の定文化祭もくそつまらんかったわけです。

高校1年生のときに初めて文化祭を体験して衝撃だった。

きっと一般の高校の文化祭は人気少女マンガ「天使なんかじゃない」のように華やかで一生の思い出になるようなお祭りなのだろう!男女和気藹々のキャピキャピなイベントなのだろう。

後夜祭では運動場でフォークダンスなんぞ踊りながら、密かに想いを寄せていたあの娘に気持ちを伝えたりするのだ!


ガッテム!



もちろん、うちの文化祭は全くそんなんではなかった。

先生がわけの分からない課題を持ってきて、それをみんなで模造紙にまとめて掲示して、はい終わり。

誰1人本気にならないわけです。

体育館ではお決まりの文化部による演奏やら発表。まあこちらはそれなりに面白いわけだが、いずれにせよ、僕らは何も参加しないわけですよ。

隣のクラスはちょっと頑張って「紙パックを再利用してめがね橋(長崎の名物)」を作ろうと、ごみ箱や焼却炉などを漁って紙パックを何百個と集めて「めがね橋」を作っていた。

みんな結構頑張っていたみたいだった。隣のクラスの友人たちが昼休みに「飲み終わったパックをくれ」と僕らのもとに毎日のように訪れていた。



しかし、




・・・できあがった橋は、誰がどう見てもごみの塊だった。



ガランとした教室に紙パックの塊が、ポンっと置いてあるだけなのだ。誰も監視していないし。。。



うーん、塊魂!!


しかも、文化祭当日に展示してたら途中で崩れ落ちたらしい。


橋、陥落!!ロンドン橋かよっ!!




その2 高校2年生の文化祭

僕らは成長する動物だ。

昨年のくそつまらん経験がある。

僕らは青春の真っ只中にいた。

何かやりたい!そう思った。


その頃すでにギター弾き語りにはまり日々尾崎やミスチルを熱唱していた僕は、ステージを貪欲に求めていた。


そこで同じく歌う場所を求めていた同じクラスのこーたろうと「ゲリラライブ」を敢行することにした。


場所は「焼却炉階段前」!!


焼却炉と言ってもあながちバカに出来ない。
アパートメントのような作りになっていたうちの学校では、ほとんどのクラスからその場所が見えるのだ!

僕らは仲間に「ゲリラライブやるから見に来て」と宣伝をし、ざっと50人くらいの仲間を引き連れてライブを敢行した。

主に僕がギターを弾き、こーたろうが歌った。
何曲も熱唱した。
こーたろうは声量があったので、声が響き渡る。

さらに集まる仲間たち。

騒ぎを察知した他の学年の生徒たちもそれぞれの教室前のべランダからこっちを見ている。
すごい注目度だ。何百人??



そのとき!!



「やめなさい」と言いながら走って来る先生たち。


散って行く僕の仲間たち。

取り残された僕とこーたろう。

もはや逃げ場無し。



何百人の前で小1時間近く怒られました。(苦)




つまりは、正式な手続きを取ってからこういうことはやれとのこと。


僕らは完全黙秘。

社会科で「黙秘権」という言葉を覚えたばかりだったのだ。


その先生の中には前回ブログに名前を書いた黒崎先生もいた。そりゃそうだ、僕とこーたろうの担任だったから。

・・・いや、大変だっただろうなぁ。突然わけの分からないことをやらかす生徒が自分のクラスにたくさんいて。。。



まあ、そのとき、貴臣の心はメラメラと燃えておりました。




その3 高校3年生の文化祭

そして時は流れ僕は高校3年生になった。

この年の文化祭が僕の人生を大きく決定づけてしまおうとは、まさか誰も考えていなかったでしょう。


3年生になり、周りで本格的に受験勉強が始まる中、僕はオリジナルソング作りに没頭していた。
僕には「高校を卒業するまでに50曲」作るという目標があった。

曲ってたくさん作ればいいってもんじゃない。まして僕にはそんな知識などない。だから作れば作るほど似通った曲になってしまう恐れもある。

でも作った。

「数打ちゃ当たる!!」

そう信じていたのだ。

結果、作って良かったと思っている。

確かに数打って多少当たった。

何より「曲の作り方」を体得できた。

それは今にも通じている。



その頃、作れば作る程、「人前で歌いたい」と欲望が叫んでいた。


とある日、貴臣は教室の張り紙を見つける。あれは7月上旬のことだ。(文化祭は9月の第1日曜日)

「文化祭で音楽のライブ活動などを行いたいものは天野まで」と。


なにぃ!!


そんなん初耳だぜ。今までの3年間、絶対にそんな掲示はなかったはずだ。

僕は走った。いざ職員室へ。そして天野先生を捕まえ尋ねた。

これは一体どういうことですかと。

すると天野先生は「昔から一応掲示してたんだけど、やろうとした人がいなかったんだよ」と嘘か誠か分からぬことを言いつつ、条件を述べた

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1.メンバーに1人でも1学期期末テストで赤点を取っているものがいないこと。

2.バンドには担当の先生が1人必要。

3.「担当の先生たちを集めてオーディション」みたいなことをやる。(しかも相当近いうちに。)

4.出演時は全員制服を着用。

5.練習は校外でやってはいけない。校内で担当の先生がいる前のみ。

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なんだそれ。(苦)

さすがうちの高校。。。


でも、僕は条件を飲み、オーディションに参加しようとメンバーを集めて準備を進めた。
昔から音楽的なつながりのあったドラマーの近藤と、今やカリスマ美容師となったでぐっちゃんをベースとして勧誘することに成功し、貴臣バンドプロジェクトは走りだした。

隣のクラスのやつらもバンドをやっていて、申し込みに来たらしく、その2つのバンドで計画は進められて行った。



問題は先生だ。



・・・あの人しかいない。



2年の時に担任だった黒崎先生だ。完全に擦れていた僕を癒してくれたミス黒崎だ。そして1年前大衆の前で僕らを叱ったミス黒崎。


快諾してくれた!!そりゃそうですよね、約束通り正式な手続きを取ったわけですから。(笑)


んで、さっそくオーディション。時間があまりにもなかった。そんなん準備できるわけない。機材も自分らで持ち込まないと行けなかった。


「せいし寮」という「ほうけい学部」級にキワドイ学内の施設でそのオーディションが始まった。

1曲でよいとのことで、僕らは1番簡単そうな「ジェーン」という曲を演奏した。(懐かしいなぁ、「ジェーン」。笑)


まあ、オーディションは形だけのものだったようで、無事に通過し、僕らはさらに準備を進めた。



その頃、1つ問題が生じていた。

でぐっちゃんの赤点だ。

赤点者が1人でもいると参加できなくなるのだ。

スラムダンクの全国大会前のようなもんだ。

でぐっちゃんには頑張ってもらった。


僕は「アッパークラス」という身分制度の頂点に立つようなクラスにいたので赤点には全く無縁だったのである。(再度自慢。笑)



なんとか、でぐっちゃんが赤点を回避してくれたおかげで事は無事に進んでいるかのように思えた。もう文化祭は目前だ。持ち時間は10分なので、2曲用意し、練習し、まずまず順調だった。


とある夜、担任の川上あちゅみ(男性)から電話がかかって来た。

「受験勉強しなきゃいけないのに、本当にバンドをやるつもりなのか?」と。そして親に代われと。



数分後、受話器に向かいぶち切れる母親。



うちの息子が音楽活動やったからって大学受験に失敗するとでも思うのかと。



さすが、うちのおかん。偉大だ。


好きなことは胸張ってやれという教えは偉大である。


その代わり受験に失敗したら母親の面目が立たないので僕は頑張らざるを得なくなった。。。


ちなみにあちゅみは「親御さんがそうおっしゃるなら大丈夫です。」とそそくさと電話を切ったらしい。

まあ、受験校の理系のアッパークラスを任せられた先生だから、こちらはこちらで大変だったんだろうなぁ。





そんなある日!鍬塚先生という文化祭を取り仕切る、言わばドン的存在から呼び出しがかかった。そのバンドのリーダーである僕と、隣のクラスのバンドのリーダー光永くんにだ。(確か光永くんって名前だったような。。。)8月の下旬だったなぁ。夏休みなはずの僕らだが、高校3年生に夏休みなどなく、僕らは「強制的補習」のため毎日学校へ来ていたのだ。


何事かと職員室に向かう僕たち。

待ち構える鍬塚先生。

僕らが座るなりこう言った。

君たちは僕はナめているのか」と。


What's??



言え、ナめていませんけど・・・。



彼は本番のプログラムを見て「オーディションのときにやった曲がどちらのバンドにも入ってなかったこと」に激怒したらしい。



・・・なんだそれ。


そんなこと天野先生からひと言も聞いてないし・・・。

しかもどうせ2曲やるんだから、1曲は絶対知らない曲で、どんな曲やるか分からないわけだし、そもそも僕のバンドはオリジナルだし、別にいいじゃん・・・。


でも、鍬塚先生はなお怒り続ける。筋が通らないらしい。わざわざ自分も「せいし寮」へ出向いてやってオーディションしてやったんだから、あの日の曲をやれと。


・・・この鍬塚先生、僕のクラスのさっちゃんのお父さんだ。

さっちゃんは僕ら理系アッパークラスのむさい男たちのアイドル的存在で、僕と同じグループだった計5人の男子からは「リーダー」と呼ばれ、共に世界平和を司る軍団として活動していたのだ。

そんなさっちゃんのお父さん。

言わば義理のお父さん!!




許さん!!!!




睨み返す僕。そんなことは聞いてないと主張する僕。

隣の光永は泣いている!




えっ!?



なんで泣いてんの光永・・・。


確かに鍬塚先生は怖い。見た目はほとんどマラドーナだ。

このマラドーナからあの妖艶なさっちゃんが生まれたとは信じがたい。きっと相当お母さんが美人なのだろう。


収集つかなくなり、最後に鍬塚先生は言った。




「文化祭は来週だし、99歩譲ってやる」





どーん!!





僕はこの言葉を一生忘れないだろう。

今後の人生においても「99歩」も譲ってもらうことなどはきっとないだろうから。



あれから7年後、僕と鍬塚先生は、さっちゃんの結婚式で再会することになる。

僕ら地球防衛軍の仲間は結婚式に呼ばれたのだ!ハッピー☆


僕は言った。

「先生、あの時は99歩譲っていただき有難うございました。」と。

周りの仲間、苦笑。


以外と根深いのね、僕。





うわー!!


しかし今日のブログ長くなったなぁ。(笑)短編小説級だぜ。

も少し、続きます。




そして、僕らのバンドは長崎北高校始まって以来の「バンド演奏」を行うことになる。

バンド名は「黒崎暢子とゆかいな仲間たち」だ。


ありがち!!


演奏曲目

1. Let me go

2. ささやかな喜びの中で



もんのすごい人が集まった!ほとんど全校生徒だ。体育館いっぱい!!
もちろんミーハーなうちの母親たちも見に来ている。


熱唱した。全2曲。
ステージは何の飾りつけもなく。PAもいなく、音響はひどいもんで、しかも制服だ。

でも熱唱した。

同学年の男子たちは超ノリノリだった。めちゃくちゃ盛り上げてくれた。

今思えばありえないほど下手くそな演奏と下手くそな歌だったのだが、あれ以来たくさんの人の前で、あれ程盛り上がっている人の前で歌ったことは、残念ながらまだ体験していない。


あの日が僕の人生を変えた。

そりゃそうだ。

最高のステージだったのだ。


まさか、あのとき見ていた人たちも僕が今でも歌い続けるとは思いもしなかっただろう。

うんうん、高校時代最良の思い出だ。


ちなみに1学年下の後輩の4ピースバンドが下北沢あたりを中心に活動してる。
hare-brained unity
ってバンドです。

朝4時のフジテレビの天気予報でプロモが流れていた!!
すごいかっこ良かった。サウンドも前衛的でボーカルの彼はイケ面だ。

ベースは不良少年だった大樹。ゴミ捨て行くときにあいつの教室の前を通ると、あいつはいつもベランダでサボってたから話してたら、「おれと話すとラグビー部の先輩たちから目つけらてシメられちゃうからやめた方がいいよ。」みたいなかわいいことを言っていたなぁ。根はいいやつだったのだ。

まあ、その「ラグビー部の先輩たち」の中に僕の幼馴染が2人いたんですけどね。。。(汗)ごめんな大樹。おれは悪くないぞ。



いやいや、しかしブレイク前夜を感じた。

が、嬉しい反面悔しい。

一応1学年先輩だからね。

おれも頑張らんとね!!

でもいいなあ、バンドって。みんなで夢を追うってのも素敵だな。励まし合ってさ。

お金もみんなで負担できるからツアーとかも行けるし。



まあ大変だろうけどね、1人でも病んでしまうとそこからガタが来る。

僕らは既に人生を何も考えずに突っ走れる年齢ではなくなってしまったのだ。



けっぱれ!!!




まあ、彼らもきっとあの日の僕のライブを見て夢を描いたに違いない。(爆)



まあ、そんな感じの学校バトン中盤戦でした。終わらないね、これ。