おじいちゃんとおばあちゃん

誕生日に母方のおじいちゃん、おばあちゃんから1万円をもらった。おじいちゃん、おばあちゃんがオカンに渡して、オカンが僕の郵便局の口座に振り込んでくれたのだ。

もう27歳になるというのに未だにおじいちゃん、おばあちゃんは僕にお小遣いをくれる。いつまでたっても子供の子供は「超」子供なのだろう。金額も子供の頃から変わらずずっと1万円だ。いつまで経っても超子供だから、額も変わらないのだろう。子供にしてはすごく大きい額だけどね。


それを数日前にオカンから聞いたので、お礼の電話を今日かけた。はやくかけなきゃと思っていたのに自分のことばかりやっていたら何日も経ってしまった。「一流は遅刻をしない」が僕のモットーだが、最近遅刻や遅延が多いような気がする。まだまだ二流、三流だなぁ僕は。


夜の22時過ぎに電話をしたら、もうおじいちゃんは寝ていた。今日はオカンとオトンと4人で長崎の松浦というところまでドライブに行って疲れてしまったらしい。最近あの4人は毎週のように出かけているようだ。別々の家に住んでいるのだが、オトンももう退職しているので、最近は4人で人生の余韻の部分を調和させながら過ごしているようだ。



それでおばあちゃんと5分くらいだが電話で話をした。

「元気しとるとね」って言うから「うん」って答えた。「ちゃんとご飯は食べよるね」って言うから「うん」って答えた。「音楽はやりよっとね」って言うから「うん」って答えた。何だか声がすごく優しかった。音楽のことを聞かれてちょっと嬉しかった。僕が音楽をやっていることをちゃんと認識してくれているらしい。

おばあちゃんは36年間長崎の諫早というところで小学校の先生をやっていて、僕が小さい頃はすごく厳しくて、おばあちゃんは怖い人だと思っていた。おじいちゃんもおじいちゃんで銀行のお偉いさんだったらしく、やっぱり小さい頃は怖い人だと思っていた。
そういう2人だから、僕も兄ののんちゃんと同じように銀行員かもしくはそれ相応の会社でちゃんと働くものだと思っていたと思う。


音楽の道に進むことについて、オトンやオカンとは長い間話をして来たが、おじいちゃんとおばあちゃんとは何も話をしていない。

どう思っているんだろうなぁってずっと思っていた。

少なくとも認識してくれているようでちょっと嬉しかった。





時々思う。


おじいちゃんやおばあちゃんは、日々をどういう思いで生きているんだろうって。
長崎の田舎町で変わり映えの無い日々の中で、どんな楽しみを見つけ、どんな目的を持って生きているんだろう。

僕の生きている世界は、日々やるべきことがたくさんあって時間が幾らあっても足りないくらいで、さらには野望もあって将来の自分への楽しみと不安が混在している。
僕はそういう日々を「生きている」ことだと思う。

おじいちゃん、おばあちゃんの目にこの世界はどんな風に映っているんだろう。立ち並ぶ木々にまだ新しい花は咲くのだろうか。楽しみはあるのだろうか。野望はあるのだろうか。


僕にもいつかその時が来て、今のおじいちゃんとおばあちゃんが見ている世界を見る日が来るだろう。そのとき「あぁ、あのとき僕が不思議に思っていた世界はこんな風だったのか」って思うのだろうか。


その世界が輝いていることを願って止まない。


2人一緒にずーっと長生きして欲しいなぁ。